洲珠乃日記(すずない)

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ローマと呼ばれた国・Ⅴ

・第3次ポエニ戦争の戦端
第3次ポエニ戦争といってもすぐさまカルタゴとローマの大激戦が始まったわけではなかった。
何故ならどちらも軍団を出していなかったからである。

正確にはローマはアルウェルニ族との戦闘に奔走していた。
カルタゴは北部スペインにいるガラエキ族との戦闘が続いていたからだった。
元老院はとにかくもカラリスを包囲している敵軍の撃退をする必要に迫られた。
サルディニアを取られるとその周辺の制海権を取られることになるからだ。
だが、この時のローマには軍団が居なかった。
アルウェルニ族との戦闘に全ての軍団が出払っていたのである。

こうして元老院は緊急的処置を取ることになった。
まずローマの港オスティアに部隊を輸送する軍船を手配すること。
次に、載せる部隊は元老院議員達とその従者であることだった。
この時ローマに常駐していた元老院議員は16名。
その内の統治能力に優れた1人を残した15名がカラリスへと向った。

サルディニア島西岸に着くや議員達は馬を駆ってカラリスへと急行する。
輸送した軍船は身軽になったのでカラリスの港へ急いだ。
2手に分かれたのには理由がある。
一つは途中でカルタゴの大船団にあって全滅する危険性を避けたこと。
もう一つはカラリスに放った斥候によって港付近にカルタゴの船団が停泊しているのを確認した為だった。
両方とも小規模な船団だったが、この時派遣されたローマ海軍は精鋭中の精鋭だった。
2つに分かれていたカルタゴの船団を瞬く間に撃沈、または撃退したのである。
これによって孤立したカラリスを包囲中のカルタゴ軍は、撤退することも出来ずに包囲を続るしかなかった。
ここに元老院議員達の部隊が到着し、すぐにカルタゴ軍は駆逐された。
このカルタゴの意味のない戦闘行為に、誰もが疑問を持った。
なぜこれだけの小規模な戦闘をカルタゴが?
疑問に答えれるものはいない。
そしてここで一旦カルタゴとローマとの戦闘は途絶えるのである。

・アルウェルニ族との死闘
この間に、ローマはますます現フランスに向けて軍団を派遣していた。
ガリア人は、深い森を利用したゲリラ的な攻撃によってローマ軍を苦しめていた。
木の間から現れては弓や投げ槍で攻撃してくるのである。
時には気性の激しいガリア人部族が大挙して押し寄せてきたこともある。
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だがこれもローマは全て跳ね除けて前進した。

数度の戦闘によってアルウェルニ族は疲労の極にあった。
特に彼らを落胆させたのは、都市を包囲しているローマ軍を逆に包囲したのに撃退され、駆逐されたことである。
それも一回ではなかった。
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アウァリクム逆包囲戦 ローマ建国紀元556年春

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ゲルゴウィア逆包囲戦 ローマ建国紀元557年冬

また、この前年にあった数度の戦闘でアルウェルニ族は2人の王を失っていた。
これも彼らの意気を消沈させるのには十分だった。
だが、まだ彼らには戦力があった。
森の何処にでも潜んでいる彼らを全て見つけ出して全滅させるのは不可能だった。

それでもローマ軍は進み続けた。
そしてローマ建国紀元559年春。
アルウェルニ族最後の砦が陥落した。
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この最後の戦闘は、マッサリアでロングスが徴募した軍団が攻略を担当した。
南フランスから北フランスまで遠征したのである。
これによって壊滅したアルウェルニ族を併合したローマは、対カルタゴ戦への準備をすることになる。


・世界の出来事と勢力地図
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ロゼッタ石 ローマ建国紀元557年

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赤がローマ ローマ建国紀元559年

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ローマ城塞 現在ローマにある軍団歩兵の建物