洲珠乃日記(すずない)

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ローマと呼ばれた国・XI

マケドニアギリシア都市同盟戦争
ローマ建国紀元585年、この戦争はこれまで貿易協定を結んでいたマケドニア王国がローマのアドリア海に面した港を封鎖したことで始まった。
この封鎖はローマ側には殆ど効果のない封鎖であった。
にも関わらずマケドニア王国はローマとの対決を望んだのである。
海戦は挑む前にマケドニア海軍が撤退したことによって発生しなかった。
しかし、イリュリアに侵攻したマケドニア軍とローマ軍が激突した。
結果はローマの大勝だが被害が大きかった。
技術の洗練されたマケドニア軍との戦いはこれまでの蛮族とは違ったのである。
イリュリアに駐留していた軍隊が旧式の部隊だったことも原因だった。
前回に記述した新軍団はカルタゴへの遠征から帰還し、シチリアで休養中だった。
シチリアイタリア半島の最南端は非常に近い。
休養していたローマ軍はすぐさま軍団をまとめにかかった。
だが、ここで海を渡ろうとしたローマ軍の邪魔をしたものがいた、ギリシア都市同盟の海軍である。
彼らは大型の船でローマ軍の輸送艦隊を蹴散らし、ローマ軍の渡海を妨害しにかかったのである。
ローマ側はこの敵の動きに海軍の新編成を求められることになった。
すぐさま建造された船は以下になる。

ローマ、オスティア港からデケーレ船2
カルタゴ、円形軍港造船所からデケーレ船2
シチリア島、各造船所から3段櫂船44

ローマはこれだけの戦力を整えるのに殆ど時間を要しなかった。
海軍が主力ではないのは有名な話だが、カルタゴを取り込んだこと、技術の大幅な向上と都市の拡張、これによってローマ海軍はイタリアとカルタゴ間では緊急の場合すぐにでも海軍を立ち上げられるほどの技術と生産性面の発展を見せている。
流石にこれには対抗し得ないと悟ったのか、ギリシア海軍はすぐに撤退を開始。
撤退に遅れた大型船や小型船は包囲したローマ海軍によって全て沈められた。
ローマ軍はこれらの船舶を使ってすぐさまシチリアに居た軍団を渡海させた。
渡海した軍団はブリンディシのあるタレントゥムを目指して行軍させ、そこで各軍団に配置される将軍を待つのである。
この時集合したローマ軍団は、計5個軍団である。
ユノーの神殿に集まった元老院議員達は、マケドニア遠征についての具体的な政治的内容を決議している最中だった。
マケドニアはその領土が南部と北部に別れている事が問題となった。
ダキアとの戦いでマケドニアの領土は真中が分断された形になっていたのだ。
・盟友であるスパルタとの共同歩調は取れるのか。取れるとしても戦力は期待できるのか。
これは不確定の要素が多いので実際に上陸してから連絡を取るということで決定した。
ギリシア諸国連合を、どの程度ギリシアから駆逐するか。
これはギリシアを、アフリカでプトレマイオス朝エジプトとの緩衝地域として置いているのが問題となった。
マケドニア征服後、次に接するであろうセレウコス朝シリア、スキタイ、ダキアとの対外関係をいかにするか。
これは気が早いとも取れるが、征服後の統治と対外関係を考えておかなければいけなかった。
これらの決議がなされた後、元老院から任命された将軍らは直ちにブリンディシにいる軍団と合流した。
ローマのマケドニア遠征は刻々と近づいていた。


・キンブリ族
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ローマの領土は非常に広大になっている
北はデンマーク南、南はアフリカまでを押さえている

特に北方の安定は、蛮族からの脅威が収まった事で非常に都市の発展に役立っていた。
ガイウス・メンミウス・ゲメルスが指揮するローマ軍は、完全に大陸からベルガエ族を追い出してブリテン島に閉じ込めた。
しかし、変わってキンブリ族が南下している状況をはっきりと確認できるようになったのだ。
キンブリ族はボイイ族との戦争で、その勢力を拡大させている。
元々領土を欲して行動することは少なかったキンブリ族だが、ボイイ族の勢力が弱いことに目をつけての征服戦争を仕掛けたのである。
キンブリ族はゲルマニア民族とも近いこともあって、親ゲルマニアという面を持っている。
ローマに征服されたガリア地域の民族とは考え方が違った。
彼らは武術を嗜み、狩猟をしながら神々との接点を探す。
東方やギリシアから流れてくる贅沢品には興味を示さなかった。

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ガイウス・メンミウス・ゲメルス
51歳
敬称:殺戮者

数年前までベルガエとの総指揮を執っていた彼も、白髪が目立ち始めている。
全属州ガリアの総督となった彼は、元老院からのキンブリ族に対する指揮を執るようにとの指示に従って戦争準備をしていた。


マケドニア遠征
ブリンディシに集まったローマ軍団に将軍が着陣し、軍団は慌しく出港準備に取り掛かる。
各将軍はシラクサのアカデミーで育ったエリート達である。
彼らの軍事能力の高さは、平均指揮能力5ということからも伺えると思う。
彼らは集めた軍団を散開して進めることにした。
ブリンディシから出航する船は3路を取る。
・北方の山岳地帯へ迫る海路
・すぐ対岸のアポロニアに迫る海路
・南のコリントスに迫る海路
この3つである。
さらに、北部イリュリアから出陣した軍団が南部イリュリア領を持つギリシア諸国連合に攻撃を仕掛ける。
実質4つのルートからマケドニアを攻撃することになった。
海路と陸路の軍団をあわせると7個軍団にもなる。
この軍勢を持ってローマ軍はマケドニアに襲い掛かったのだ。
イメージ 3まず上陸に成功した全部隊は沿岸部の都市を即座に陥落させた。ここで、偵察部隊は同盟国スパルタがマケドニア相手に善戦している事実を確認したのである。
スパルタ軍はギリシア諸国同盟を圧迫し、南端のスパルタからラリッサに迫ろうとしていた。
ここにローマ軍が到着したのである。
既にラリッサはスパルタ軍が包囲していたのだが、ローマ軍の攻城兵器がスパルタ軍の追従を許さなかった。
スパルタ軍が都市を包囲してジッとしている間にローマ軍はラリッサを陥落させてしまった。
イメージ 4そのまま内陸部に進入し、エデッサ、ペラ、テッサロニケを電光石火の勢いで陥落させた。
この素早い動きにスパルタ軍は完全に出し抜かれてしまった。
彼らはローマと戦争をしたくなければ、スパルタからアテネまでの領土で満足しなければならなかった。
この頃、マケドニアでは不幸な出来事が発生していた。
全領土で疫病が発生していたのである。
これに気付いたローマ軍は侵攻を止め、疫病が治るまでマケドニア領への進入は諦めることになった。
変わってマケドニア領の真中にあって孤立していたダキアの存在がローマ軍の目に止まった。
彼らの領土は少なく、そして兵士は強力だが軍隊はマケドニアとの戦いで疲弊しきっている。
これほどの機会はないとしてローマはダキアに宣戦布告、すぐさま攻撃を開始する。
ダキアは現在のセルビアと北部ルーマニアの一部を所領しており、その間はマケドニア王国によって分断されている。
色々な面から見てダキアマケドニアの泥沼の戦いが、ローマとの戦いで悲劇を生んでいた。
彼らは混乱した戦時下にローマとの戦端を開いたことで、要らぬ不幸を自ら呼び寄せたのだ。
マケドニア戦争はローマの一方的な戦いで進むこととなった。

ダキアとの戦い
ダキアは恐ろしい部族だ、彼らの持つファルクスという武器と、大きな体躯はローマ兵の鎧を切り裂きローマ兵の不安な心を揺さぶった。
特にファルクスを装備した精鋭部隊は非常に強力で、ローマの精鋭部隊を散々に打ち負かしたのだった。
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ローマ軍は緒戦においてマケドニアとの戦闘以上の深手を負うことになってしまった。
特に問題だったのは支援部隊の半数以上を失ったことである。
支援部隊とは、ローマ軍の中核である軍団歩兵を援護する兵士の事を指す。
この部隊の中核は当然ローマ市民によって構成された軍団兵であったが、これを支援する支援部隊もこの軍団ではローマ市民だった。
構成されていた部隊はエウォカティだったのだ。
このローマ市民で編成された部隊の壊滅は、ローマ軍の主力である軍団兵に多くローマ市民がいるのに対して、装備の貧弱な支援軍にローマ市民が配備されているのを国民が、そして兵士が嫌がりだしたのである。
だが部隊を再編成する余裕が最前線であるはずもなく、そのままでの戦争継続を余儀なくされた。
この時多くは取り上げられなかったが、支援部隊だけでなく主力である軍団兵も定数の半分近くがダキアとの戦いで消耗していた。
装備が貧弱だからという理由だけではなかったのだ。実際にダキア軍が強すぎたのだ!
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予想外の出血を出して、ローマ軍はマケドニアを横断して黒海にまでその勢力を伸ばしつつあった。

ここでギリシア遠征中のローマ軍に急報が届く。
曰く「キンブリ族が属州ガリアに大挙して押し寄せた」というのである。
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・世界状況
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ローマ建国紀元582年
ベスビオ山の噴火

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ローマ建国紀元586年
哲学は軟弱者のもの