洲珠乃日記(すずない)

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クレタ弓兵

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Rome:Total War -Europa Barbarorum-より クレタ弓兵


■歴史的考察
クレタ弓兵は古来より有名な射手の傭兵として知られた人たちである。クレタという名前から想像出来るように本来はクレタ島(ミノア文明の栄えた)事で知られる。だが、時代を経過するにしたがってクレタ式弓術を学んだ者たちがクレタ弓兵として知られるようになり、クレタ島人やクレタ式弓術を習ったものが弓部隊の指揮官として雇われることも多かった。特に共和制ローマポンペイウスが登場した時代、クレタ島はシリアのキリキア海賊などの根拠地として使われたこともあるのだろうが、クレタ流(Kretan Wayを独自和訳したので正確かは不明)と呼ばれる略奪暴行を働いた。このような海賊の横行は当時海軍が強かったロードス島共和制ローマが行った懲罰とポントス王ミトリダテス6世の援助があったからなのだが、それ以前からもクレタは通行する商船などに海賊行為を仕掛けることで有名であり、それが職業ですらあった。話を戻してクレタ弓兵は上に記載したようにクレタ人だけの弓兵ではなかったのだが、この島に住み着いた無法者たちが後年では増えて活動したため非常に暴力的だったとされ、ついにはクレタ島の出と偽る盗賊するら現れる始末だったようだ。彼らの技術は他の射手を寄せ付けず、地中海世界でその名を知らしめて東はセレウコスから西はカルタゴまで殆どの世界で彼らは活躍した。特に目を引かれるのはクセノフォンがペルシアからギリシアへの退却戦を行う際のTen Thousand(直訳で一万だがこれはクセノフォンなどが率いた一万のギリシア人傭兵に由来すると思われる)が挙げられる。この時期から上に書いたように海賊行為が特に多くなるのだが、それにはクレタ島内での内乱が関係していると思われ、当時それら内乱の敗者が島外へ脱出して傭兵として活躍したのだと思われる。彼らは紀元前74年に襲来したマルクス・アントニウス・クレティクス率いる軍を撃退したが、後にポンペイウスの海賊討伐によって紀元前68年にキュドニアを占領された。その後はローマ軍の何世紀にも渡って補助軍の射手として兵力を供給し続け、1453年のコンスタンティノープル防衛にクレタ弓兵が参加していたとされる記述が見つかっている。


■装備と任務
合成弓、小型の丸盾(ペルテ)、短剣、リネンの胸当てなどを装備していたとされる。この合成弓はクレタ式の弓なのか、それとも北方民族のスキタイのものを真似たものかは分からないが、アナバシスではスキタイ流の複合弓という記述が見られる。これは小アジアスキタイ人が約25年(うろ覚え)に渡って略奪暴行によるとても支配とは言えない活動をしていたが、その時かペルシアの傭兵としても参加したことがあるためその時に弓を真似したのかもしれない。どちらにしても気になる点は、彼らの弓はペルシア軍が放つ長射程の弓に対抗できなかったという点だ。これを考えると命中させる技術や合成弓による威力で優れていたと考えられるが、射程距離についてはどれほどのものだったのか気になるところである。彼らの任務は主力とぶつかる前に敵に混乱を発生させることと、味方が敗北したときに撤退を助ける援護射撃であった。

●追記
小型の丸盾(ペルテ)はアレクサンドロス大王に従軍したクレタ弓兵の記述を見ると青銅製の小盾であったらしい。