洲珠乃日記(すずない)

気ままな更新とサイドカーやゲームのブログ

トレビアの戦いから南伊諸都市の離脱まで par.1

・平時のローマ軍の編成内容
一個軍団
ローマ市民兵
歩兵4500
騎兵300

同盟兵士
ローマ市民兵よりも少し多い程度
歩兵4500以上
騎兵300以上
となる。

執政官一人で二個軍団を指揮できる。
ローマでは執政官が二人いるので計四個軍団が常設される。
人数にするとおよそ三万八千人。

・戦時には増強されて五万四千人。
これはガリア人やイリュリア海賊と戦った時の編成である。
ローマ市民と同盟都市市民の比率は2:3。

カンナエ前にローマ軍増員の結果の編成
軍団を増やしたのではなく部隊の編成数を増やした。
ローマ市民兵
歩兵40000
騎兵2400

同盟兵士
歩兵40000
騎兵4800

計、八万七千二百人

カンナエ時のハンニバルの編成
直衛部隊
歩兵20000
騎兵6000

ガリア傭兵と同盟兵
歩兵20000
騎兵4000

計、五万人





・センプローニウスとスキピオ
紀元前218年
執政官
貴族出身:プブリリウス・コルネリウススキピオ(父)
平民出身:ティベリウス・センプローニウス・ロングス

2人とも最初の任地はポー川周辺の予定だった。
しかし、ハンニバルのエブロ河渡河で任地が分けられる。
スキピオがスペイン
ロングスがシチリア

ハンニバルピレネー越えをやったことでローマはハンニバルの考えが読めなくなる。
この時代の執政官に選出された平民出身者は、強気に出る傾向が強い。
なぜなら、ここで彼が頑張らねば、次に選出されるであろう平民出身者の護民官や平民達のために頑張らねばと奮起せずにはいれないからである。
また、これらの思いは執政官の前になっていた平民代表の護民官の時よりもはるかに彼ら平民出身の執政官には重くのしかかった。

彼はトレビアの戦いでハンニバルに敗北する。
それだけならまだしも、兵士や市民たちには将軍としての能力が欠如していると認識され、以後執政官や前執政官(プロコンスル)には選ばれていない。
変わってスキピオハンニバルに敗北するも、その軍事的能力を買われて弟のグネウスと共にスペインへ進撃している。絶対指揮権である前執政官を任命されてである。

息子の大スキピオは、このスペイン行に同行していない。
貴族のエミリウス・パウルスの元に預けられていた。


紀元前217年
この年の執政官
平民出身:ガイウス・フラミニウス・ネポス
貴族出身:セルヴィリウス

・ネポス
紀元前223年
彼はガリア人との戦いで勝利を収めている。
紀元前220年
現在も残るイタリア国道3号線であるフラミニア街道を敷設している。
・勝利と公人としての活動で民衆の人気をバッチリ掴んでいた。

ネポスの行った政策は、民衆と貴族の間に溝があったこの時期にとって拍手喝采で迎えられた。
すなわち元老院議委員の通商を禁じたり、国有地の私有上限を決めたからである。
それまでは貴族、すなわち元老院議員達のお金持ちが広すぎる土地を持ち、通商をして金儲けをしたために平民たちは貴族と同等に何かをすることが出来なくなっていた。
才能があっても金持ちである貴族達がほぼすべての権利を持っていたのである。
これら貴族の特権ともいえる法律を規制したのがネポスだった。

そして、それによって自分は貴族からとても疎まれていると貴族が思っている以上に彼は気にしすぎてしまった。
結果、それがネポスの態度が強行になってしまったのである。
そして、すでに執政官率いるローマ軍に勝利したハンニバルとの戦いに勝つことで、この状況を打開しようと試みたのだ。

だが、通常の枠に当てはまった行動をしないハンニバルにすべてのローマ人が裏をかかれた。
そしてそれはネポスも例外ではない。
彼はトラシメヌス湖畔の戦いでハンニバルの奇襲を受けて戦死した。
そしてその部下達も殆どが皆殺しになったのである。


ハンニバルの狙い
ハンニバルは戦闘に勝利することで、ローマと同盟関係を結んでいる都市の離反を狙っている。
まずトラシメヌス湖畔の戦いの際には、エトルリア人とウンブロ人のどちらかの離脱を狙っている。
ここでハンニバルが注目しているのは数だ。
ハンニバルが初めに遠征してきたときに従えていたのは五万人だったとされる。
だが、ローマでは最大召集可能な人数は七十五万人だったとされる。
大変な違いだ。
無論七十五万人すべてを召集して戦えるはずがないが、それでも単純に計算してもハンニバル率いる同数の5万人とローマの五万人とが戦いつづけ、ローマがほとんど負けたとしても75÷5で15回もハンニバルと戦えるだけの数があることは間違いない。
ではその中でもエトルリア人とウンブロ人の召集可能な兵士の人数はいくつだったか。
エトルリア人は五万人、ウンブロ人は二万人だったとされる。
より多くの敵を減らすために切り崩そうとすれば、エトルリア人の方だろう。
ハンニバルはそれを考えて、トスカーナ地方へ進行しようとしていた。
だが、ハンニバルがトレビア、トラシメヌスで勝ってからもエトルリア人の諸都市はハンニバルに寝返らなかった。
彼らは過去にローマと戦った経験があったが、それから同盟を結んで200年近くが過ぎており、ローマとの関係は非常に強かったのである。
ハンニバルは兵士や幕僚が不満を持とうともローマを直撃するよりも外から潰すことを諦めなかった。
ハンニバルの実力を見て、領内を通過されたエトルリア人諸都市ですら寝返らなかったのだ。
他の都市がすぐに寝返るという楽天的な考えはできなかった。
ローマを包囲している間に、ローマ以外の諸都市から来た援軍によって逆包囲される可能性が高かったのだ。
ハンニバルは可能性があればチャレンジしたが、自分が不利になる可能性を考えない男ではなかった。
それが当時誰にもハンニバルに勝てなかった理由でもある。
ハンニバルはローマを直撃出来るにも関わらず、アドリア海へ行軍してから南イタリアへいくルートをとっている。
次に勝利を見せつけるのは、カルタゴ人よりも地中海を昔から知り尽くしたギリシア人諸都市だった。
南イタリアのプーリア地方で好き放題に暴れたハンニバルとその軍勢は、五万人の口を養い略奪を繰り替えして南下していく。
そしてその途中でカンパーニャ地方へ転進する。
カンパーニャ地方はローマにとって重要な都市群があった。
カプア、クーマ、ポッツォーリ、ナポリ、ソレントという海に面した同盟諸都市があったのである。

ファビウスの登場
この頃ローマでは緊急事態宣言がなされている。
第一次ポエニ戦争以来である独裁官の任命がなされた。
彼の名前はファビウス・マクシムス。
ローマの歴史には欠かせない名前だ。
彼は北伊のガリア人と戦って勝利し、執政官も2度努めている。
そしてローマの名門ファビウス家の総帥でもあった。
彼の影響力は非常に強かった。
そして彼はハンニバルのこれまでの行動から、何を求めているかもしっかりと把握していた。
持久戦略は、ファビウスハンニバルに対するもっとも効果的な方法として持ち出した手段だった。
これまでにハンニバルと戦った将軍達はいずれも敗北している。
そのような人物に無理に戦いを仕掛けて危険な勝負をすることをファビウスは避けたのである。
そして今のローマにはハンニバルに勝てる将軍がいるとも彼は考えていなかった。
持久戦略の利点は、ただ待つだけで敵の消耗を期待できるという点である。
特にハンニバルは本拠地であるスペインのカルタゴ・ノヴァから遠くイタリアへ遠征している身である。
五万人の食料や兵士の忠誠心を維持するための努力を常に払わなければいけなかった。
ハンニバルはこのファビウスの戦略を正確に見抜いていた。
そしてそれを打開する方法を探っていた。
その一つが略奪行為であった。

ファビウスは持久戦略を奨めるが、ローマ市民や同盟市民達は自分達の領土が荒らされても何もできなかった。
無論戦っても勝てる可能性は無いかもしれない、だが黙っていることも出来なかった。
そして何よりも、同盟の盟主として何も出来ないことがローマ人の矜持を傷つけた。
ファビウスの戦略に不満を募らせるものは日に日に増えた。

略奪を繰り替えしたハンニバルは、冬越えするのに十分な物資を確保したことでプーリア地方に戻ろうとする。
軍団を冬に休ませるのにはプーリア地方が優れていたからである。
ファビウスはこの情報を得てチャンスだと確信する。
そしてそれはハンニバルも感じていた。
情報収集を怠らないハンニバルは、ローマ軍の意図を正確に見抜いていた。
ファビウスは、ハンニバルがプーリア地方に戻ると知ってイタリアを縦断するアペニン山脈を越えなければ行けないという所に目をつけた。
この山脈を越えるには谷間の道を抜けるだけでいいが、これを包囲殲滅に利用できるとファビウスは考えたのである。
全軍を三つに分けたファビウスは万全の態勢でハンニバルを待った。
だがここでもハンニバルはこれまでの将軍とは違うことを見せつけた。
一計を案じたハンニバルは、日本で言う火牛の計を使う。
松明を牛の角につけて火をつけ、ファビウス待ち伏せしている陣営ではなく反対の丘に向かって走らせたのである。
ファビウスはこれを誤認した。
ハンニバル率いる兵士達が自陣を有利な地点に築こうとしての行為だと考えたのである。
そして、丘の一つを奪られても後から合流するであろう2軍との包囲殲滅がやりやすくなると考えて朝まで待機した。
だが、このファビウスの反応を予想したハンニバルはこの間にアペニン山脈を通過してしまった。
ハンニバルファビウスの持久戦略という彼のとった作戦から彼の性格までも読んだのであろうか?
情報収集を怠らなかった彼のことだからファビウスの性格を考えての作戦だったのであろう。
つまりファビウスは積極的な攻撃をする人ではなく、慎重派だと言うことをだ。

このファビウスの失態に元老院は彼を召還した。
まだ独裁官の任期は期間がある。事実上の免職を言い渡すためだ。