洲珠乃日記(すずない)

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トレビアの戦いから南伊諸都市の離脱まで par.2

カンナエへの道
ファビウスを免職したことで、独裁官を立てることを止めた元老院は、議会で対立している2つのトップリーダーを執政官に任命した。
貴族出身:エミリウス・パウル
平民出身:テレンティウス・ヴァッロ
パウルスはファビウスと同じく持久戦略を主張する。
変わってヴァッロはハンニバルとの直接対決を声高に主張していた人だった。
折衷案とでも言うような執政官に選出された二人だが、市民集会ではこれまでハンニバルに略奪されたり、ローマ人としての誇りを傷つけられたりで主戦派で占められていた。
彼らの熱意は凄まじかった。
それはカンナエの戦いで動員されたローマ軍の人数を見ても分かる。
紀元前218年のトレビアの戦いがあった時に編成されたローマ軍は6個軍団である。
次のトラシメヌス湖畔の戦いがあった紀元前217年には11個軍団、そして紀元前216年には13個軍団にまで増員されている。
彼らはハンニバルへの復讐心に燃え上がっており、その為に兵役が増えることも容認したのである。
ローマ軍はこの増員によって八万七千人の兵士を有し、ハンニバルは五万人の兵士を率いていた。

カンナエの主人公にもなるローマの執政官について取り上げよう。
パウルスはハンニバルのイタリア進行の一年前に執政官を勤め、イリュリア族との戦闘指揮をとって勝利している。
変わってヴァッロは一兵卒の経験しかなかった。
一兵卒から皆に認められてなる百人隊長の経験もなかったらしい。
まして将軍の経験などあるはずもなかった。
ではなぜローマ軍の最高司令官とも言うべき執政官に選出されたのか?
それは前述で記した通り民衆が積極的な戦闘を望み、それを提案したのが彼だったのだ。
彼はその民衆の力を得て執政官に選出されたのだった。

ハンニバルはこれらの情報を、冬営地を引き払って南イタリアへ向かう道中で情報を仕入れた。
驚くことに彼らの性格すらも知っていたようだ。
ファビウスの時でもハンニバルは彼の性格を知っていた節がある。
パウルスとヴァッロの性格を知っていたのも、それほど不思議な事でも無いかもしれない。
そして性格を知っていたのは、ハンニバルカンナエにおける作戦を見ても分かるだろう。

ハンニバルはローマ軍から逃げるように南下しながら行軍を続け、カンナエの街で行軍を停止して街を占領した。
カンナエの街はローマ軍の食料基地でもあった。
ハンニバルは配下の兵士達を養うべき食料が必要だったのだ。
そしてカンナエに広がる平原は、ハンニバルがローマ軍と戦うのに必要な場所だった。
ハンニバルカンナエで食料補給をすると陣地を築いてローマ軍を待ち構えた。
追いついたローマ軍は陣地を設置してハンニバルとの戦いに備えた。

カンナエの戦い
睨み合ったままハンニバルとローマ軍は数度の小競り合いを繰り返している。
その度に優勢だったのはローマ軍の方だった。
そしてそれがハンニバルに勝てるという自信につながったのは想像しやすいだろう。
ましてハンニバルと直接戦ったことがローマの執政官二人にはなかった。

一日交代で指揮者が変わるローマ軍は、その日ヴァッロが指揮する日となっていた。
ヴァッロは中央を厚くした陣形を取り、ハニンバルは中央が前にでた弓のような陣形で展開していた。
つまり
ローマ軍 | vs ( ハンニバル
このような陣形だったと思ってもらえればいい。
戦闘が始まって最初に接触したのは中央のローマ軽装部隊とハンニバルの弓陣形をとった部隊だった。
経過はローマ軍の有利に進んでいる。
これを見たヴァッロは重装歩兵の投入を命じる。
指揮するのは前執政官のセルヴィリウス。
ローマ軍の精鋭である重装歩兵の突進によって、ローマ軍とハンニバルの陣形は変わる。
ローマ )vs) ハンニバル
ハンニバルの中央軍はローマの重装歩兵に押されて)の陣形になり、ローマ軍は前に進もうと)の陣形になった。
ハンニバルがとった弓形の陣形はローマ軍の攻撃によく耐えた。
元々前に出ているのだから、後ろに下がってもそれほど突破されたことにはならなかった。
両軍とも両翼には騎兵を配置しており、一方の同盟軍騎兵をヴァッロ、もう一方のローマ貴族騎兵をパウルスが指揮している。
パウルス率いる騎兵はハンニバル直属の騎兵部隊に比べて数が少なく初めから不利だった。
だが、ヴァッロのいる同盟騎兵はハンニバルヌミディア騎兵と比べて数が同数であることから耐えつづけた。
戦局は中央ではローマ軍が勝っているが両翼ではハンニバルの騎兵が勝っている状態が続いていた。
その中でもまだ戦闘に参加していないハンニバル直属の重装歩兵が中央のガリア人の背後で待機している。
ハンニバルの命令でローマの重装歩兵に押されている中央のガリア兵士達は両脇に向かって2つに分かれた。
そして、分かれた先にはハンニバルの精鋭達が姿を表したのである。
ハンニバル直属の歩兵は二万名、対するローマ軍は疲労しているとは言っても後方に残された一万名を除いた七万人がいた。
だが、疲労せず温存されていたハンニバルの精鋭はローマ軍の攻撃に耐えた。
そしてその間に両翼の騎兵同士の戦いは決着がついていた。
ハンニバルの騎兵が勝ったのである。
パウルスは戦闘中に馬を失い、歩兵に混じって戦っていた。
ヴァッロは始めこそ善戦したが馬のプロであるヌミディア人騎兵には勝てなかった。
障害物のない平原をヌミディア騎兵から逃げるためには逃走しかなかった。

この時ローマ軍中央の重装歩兵とハンニバルの精鋭がぶつかっている。
ここに先ほど2つに分かれたガリア人部隊が、空になったローマ軍重装歩兵の両側面に襲いかかる。
これでは縄で縛られて両手両腕を広げられない状態になったようなものだった。
そしてそれにローマ軍が対処する前にローマ軍の騎兵を蹴散らしたハンニバル直属の騎兵がローマ軍の背後を襲った。
そして遅れてきたヌミディア騎兵が到着したことで完全にローマ軍は包囲されてしまった。
戦闘の勝敗は決した。

ローマ軍は、ヴァッロが命令次第ハンニバルを攻撃できるようにと待機させていた一万の歩兵を除いてほぼ全滅した。
そしてこの戦いに参加した80人あまりの元老院議員、そして前執政官のセルヴィリウスと執政官パウルス、更にファビウスの副官も戦死した。
ハンニバルはローマ軍を徹底的に潰すことで同盟都市の離反を期待したのである。

この戦いで逃げれたものはほんの僅かだった。
執政官ヴァッロと、後にアフリカヌスの称号を持つスキピオ、そして一万人にも満たない兵士たちである。


カンナエの後
カンナエの敗戦をローマでは厳粛に受け止めていた。
帰還したヴァッロや兵士達を市民たちは歓迎し、労った。
ヴァッロに敗戦の責任を問う声もなかった。
だが、ローマは続けて悲報をもたらされることになる。
ハンニバルが来てから北伊のガリア人達の抵抗が強まっていたため、これを抑えようとして出陣していたローマ軍が全滅したという報告を受けたのである。
ローマ軍は短期間の間に何と八万人近い損失を受けたことになる。

ハンニバルカンナエの戦闘の後、方針を巡って幕僚たちと揉めていた。
先ほど記述したようにローマと同盟都市との関係の深さは相当なものだ。
そして、カンナエで集まった同盟都市からの参加した兵士の数でもそれが伺える。
ハンニバルはまだローマを包囲したときに、逆包囲される危険性を考えから捨てることを許されなかったのである。
彼はまだイタリアで孤立していたのだ。
ハンニバルは五日でつけるローマよりも南下して南イタリアを抑えることにした。
この頃になってようやく同盟都市の関係が崩れ始める。
ハンニバルは南伊に到着するや都市を攻略すると、続けて複数の都市が離反した。
所々にローマ市民権を持つものたちで作られた街という名の要塞があるため、その地点は区切られるが、ともかくも離反させるという目的は達成した。
そしてローマにもっとも大きな衝撃を与えたのはカプアの離脱である。
カプアはローマにとって非常に大切な都市の一つである。
カンナエの戦いでカプアはローマを見限ったのだ。
これによってハンニバルはスペインを発ってから三年目にして同盟都市をローマから切り離すという目的を達成したことになる。
紀元前216年の冬から215年の冬越えを、ハンニバルはカプアで過ごすつもりでいた。